› イサーンで胃酸過多の日々 › 2012年11月
2012年11月16日
戦い
灯が落ちたネオン。
おばさんが、
未明まで繰り広げられた狂気を、
ホコリやゴミと一緒にホウキで掃き出している。
欲望やウサや怒りや悲しみ、そして一時の歓喜も、
重力に抗うことは出来ず、
床に舞い落ち、
ごちゃごちゃになり、
モップで拭かれる。
巾員数m。
長さ200mもみたない通りの早朝は、
思いのほかに綺麗に掃除されている。
通勤、通学する客を乗せた、
バイクタクシーが引切り無しに通り過ぎる。
歓楽街の早朝に見られる、
殺風景な気怠さは感じられない。
日常が戻った歓楽街。
消えた派手な看板と、
閉まった店。
そこを、何事もないように学生服を着た学生が通り過ぎる。
何とも不思議な雰囲気。
その一方で、飲み屋で夜を明かした、
酔っ払いのネーちゃんや白人が、
千鳥足で歩いている姿があったり、
朝8時前だというのに、
ディスコ調の音楽がどこからか流れてきたりする。
この通りのどこかで、
まだ、狂気が続いているのだろう。
ソイカウボーイ。
タイでも有数の歓楽街だ。
ここの客はほとんどが外国人。
タイ人はほぼいない。
人間は綺麗事だけでは生きて行けない。
表があれば裏がある。
闇は暗いほど、
陽は眩しい。
光と影。
この影の部分が、
人々を引きつけて止まない。
この通りの店に、
タイ人女性の友達を連れて行ったことがある。
何か異次元の世界を見ている様子で、
後日「怖かった」と言っていたが、
表の人にはここは異次元なのかもしれない。
これも現実。
影に潜み輝く女性もいる。
これはタイに限ったことではない。
日本だって勿論ある。
ただタイはその敷居が極めて低い。
わしのアパートから会社まで、
歩いて30分弱。
丁度中間当たりにこの通りがある。
通勤の途中、
気分転換にこの通りを歩く。
清々しい朝に、
毒毒しい通り。
これから仕事をする身にとって、
何故か気負いがなくなる。
仕事が終わり、
帰りもこの通りを通ることが多い。
朝とは全く違う。
ネオンが輝き、
観光客が行き交う。
オネーちゃん、おばちゃん、オカマが、
だるそうに客引きをしている。
しかし、毎日のように通ると、
わしに声を掛けて来ることもなくなる。
今では、この通りの店に立ち寄ることもほぼない。
珍獣ハンターイモトのように、
めざせ!!全店制覇。とも思うが、
そんな気力も経済力もない。
それにしても、
会社からアパートまで、
歩いて帰る間に、
どれだけ誘惑があることだろう。
この誘惑に勝てる男はいない。
居たらそれは変人かホモだ。
あっちにフラフラ、
こっちにフラフラ。
煩悩との戦いは終わりそうにない。。。。。
おばさんが、
未明まで繰り広げられた狂気を、
ホコリやゴミと一緒にホウキで掃き出している。
欲望やウサや怒りや悲しみ、そして一時の歓喜も、
重力に抗うことは出来ず、
床に舞い落ち、
ごちゃごちゃになり、
モップで拭かれる。
巾員数m。
長さ200mもみたない通りの早朝は、
思いのほかに綺麗に掃除されている。
通勤、通学する客を乗せた、
バイクタクシーが引切り無しに通り過ぎる。
歓楽街の早朝に見られる、
殺風景な気怠さは感じられない。
日常が戻った歓楽街。
消えた派手な看板と、
閉まった店。
そこを、何事もないように学生服を着た学生が通り過ぎる。
何とも不思議な雰囲気。
その一方で、飲み屋で夜を明かした、
酔っ払いのネーちゃんや白人が、
千鳥足で歩いている姿があったり、
朝8時前だというのに、
ディスコ調の音楽がどこからか流れてきたりする。
この通りのどこかで、
まだ、狂気が続いているのだろう。
ソイカウボーイ。
タイでも有数の歓楽街だ。
ここの客はほとんどが外国人。
タイ人はほぼいない。
人間は綺麗事だけでは生きて行けない。
表があれば裏がある。
闇は暗いほど、
陽は眩しい。
光と影。
この影の部分が、
人々を引きつけて止まない。
この通りの店に、
タイ人女性の友達を連れて行ったことがある。
何か異次元の世界を見ている様子で、
後日「怖かった」と言っていたが、
表の人にはここは異次元なのかもしれない。
これも現実。
影に潜み輝く女性もいる。
これはタイに限ったことではない。
日本だって勿論ある。
ただタイはその敷居が極めて低い。
わしのアパートから会社まで、
歩いて30分弱。
丁度中間当たりにこの通りがある。
通勤の途中、
気分転換にこの通りを歩く。
清々しい朝に、
毒毒しい通り。
これから仕事をする身にとって、
何故か気負いがなくなる。
仕事が終わり、
帰りもこの通りを通ることが多い。
朝とは全く違う。
ネオンが輝き、
観光客が行き交う。
オネーちゃん、おばちゃん、オカマが、
だるそうに客引きをしている。
しかし、毎日のように通ると、
わしに声を掛けて来ることもなくなる。
今では、この通りの店に立ち寄ることもほぼない。
珍獣ハンターイモトのように、
めざせ!!全店制覇。とも思うが、
そんな気力も経済力もない。
それにしても、
会社からアパートまで、
歩いて帰る間に、
どれだけ誘惑があることだろう。
この誘惑に勝てる男はいない。
居たらそれは変人かホモだ。
あっちにフラフラ、
こっちにフラフラ。
煩悩との戦いは終わりそうにない。。。。。
2012年11月15日
ずれ
話が合わない。
タイ人とではない。
タイ人とはそもそもそんな難しい話が出来ない。
日本人と会話していて、
何か価値観や考え方みたいな物にずれを感じるのだ。
何でだろうと考えていたら、
わしの方が変のだと気が付いた。
一般的な日本人とは違って来ていると。。。
わしは日本のサラリーマンを辞めて、
十年以上が過ぎたことは何度も書いたが、
この激動の10年間で、
わしの考えや価値感が、
相当日本人の一般的なそれとは、
ずれて来ているのだろう。
わし自身はそんな意識はないのだが。。。。
タイに在住している人で、
タイに馴染めない人が居る。
特に真面目で年を重ねている人の中には。
歳を取るということは、
経験を積むということ。
その分、物事を判断する物差しは確立されているから、
同じ尺度の物なら決断が早い。
正確に測れる。
しかし、尺度の違う物は・・・・
解釈が狂ってくる。
当然正確に測れない。
中々順応出来ないのはその為ではないかと思う。
子供はまだ物差しが曖昧だから、
自分の尺度を変え易い。
つまり順応し易いと。。。
その代わり、異文化の中でアイデンティティーは破壊され、
それを再構築するには相当な苦難があるに違いない。
わしも日本でサラリーマンを続けていたら、
考え方はそんなに変わってなかっただろうと思う。
今ほどずれてはいなかったに違いない。
企業という傘から飛び出し、
肩書きのない世界で生きてきた経験は、
(日本人という肩書きは海外で生きる上では大きい存在だが。。。)
仕事の面で生かさせているかはどうかは分からんが、
生きる上では有益になっていると感じている。
常識はその地域に占める割合の多い人々の価値観で決まってくると思うが、
農業立国であるタイと、
サラリーマンが多い日本とは、
常識がもちろん違っている。
自然を相手にするということは、
インプットをしても、
思うようなアウトプットが出て来ない。
毎日、規則正しく肥料や水を与えても、
環境によって実の大きさや美味しさ、収穫量は違ってくる。
天候によっても大きく左右される。
計画性がなく、
刹那的なタイ人に、
タイで仕事をする日本人の多くは、
不満を感じるのだろう。
、
年を取れば取るほど、
自分を変えることは困難だ。
日本の価値観、やり方が正しいと刷り込まれている。
やはり海外で暮らすということは、
物差しを変える必要があるのだろう。
確立された物差しの尺度を変えることは困難だろうから、
新たに物差しを作る必要があるのかもしれない。
それに気が付き、
今までの物差しを捨てる。
それが海外で馴染めるかどうかのカギだと思う。
もし、わしがタイに馴染んでいるとしたら、
それは、単にいい加減な性格で、
何のこだわりも無いからかもしれない。。。。
タイ人とではない。
タイ人とはそもそもそんな難しい話が出来ない。
日本人と会話していて、
何か価値観や考え方みたいな物にずれを感じるのだ。
何でだろうと考えていたら、
わしの方が変のだと気が付いた。
一般的な日本人とは違って来ていると。。。
わしは日本のサラリーマンを辞めて、
十年以上が過ぎたことは何度も書いたが、
この激動の10年間で、
わしの考えや価値感が、
相当日本人の一般的なそれとは、
ずれて来ているのだろう。
わし自身はそんな意識はないのだが。。。。
タイに在住している人で、
タイに馴染めない人が居る。
特に真面目で年を重ねている人の中には。
歳を取るということは、
経験を積むということ。
その分、物事を判断する物差しは確立されているから、
同じ尺度の物なら決断が早い。
正確に測れる。
しかし、尺度の違う物は・・・・
解釈が狂ってくる。
当然正確に測れない。
中々順応出来ないのはその為ではないかと思う。
子供はまだ物差しが曖昧だから、
自分の尺度を変え易い。
つまり順応し易いと。。。
その代わり、異文化の中でアイデンティティーは破壊され、
それを再構築するには相当な苦難があるに違いない。
わしも日本でサラリーマンを続けていたら、
考え方はそんなに変わってなかっただろうと思う。
今ほどずれてはいなかったに違いない。
企業という傘から飛び出し、
肩書きのない世界で生きてきた経験は、
(日本人という肩書きは海外で生きる上では大きい存在だが。。。)
仕事の面で生かさせているかはどうかは分からんが、
生きる上では有益になっていると感じている。
常識はその地域に占める割合の多い人々の価値観で決まってくると思うが、
農業立国であるタイと、
サラリーマンが多い日本とは、
常識がもちろん違っている。
自然を相手にするということは、
インプットをしても、
思うようなアウトプットが出て来ない。
毎日、規則正しく肥料や水を与えても、
環境によって実の大きさや美味しさ、収穫量は違ってくる。
天候によっても大きく左右される。
計画性がなく、
刹那的なタイ人に、
タイで仕事をする日本人の多くは、
不満を感じるのだろう。
、
年を取れば取るほど、
自分を変えることは困難だ。
日本の価値観、やり方が正しいと刷り込まれている。
やはり海外で暮らすということは、
物差しを変える必要があるのだろう。
確立された物差しの尺度を変えることは困難だろうから、
新たに物差しを作る必要があるのかもしれない。
それに気が付き、
今までの物差しを捨てる。
それが海外で馴染めるかどうかのカギだと思う。
もし、わしがタイに馴染んでいるとしたら、
それは、単にいい加減な性格で、
何のこだわりも無いからかもしれない。。。。
2012年11月13日
記憶
もの食う人々
辺見庸著
手元にある文庫本を見ると、
平成9年初版とある。
わしの記憶が確かなら、
書店で平積みされていた本を手に取った記憶があるから、
その頃読んだのだろう。
結構、感動したのを覚えている。
今、わしが読む本は20Bの古本がほとんど。
古本屋の書棚にあったカバーもないこの本を見つけ、
新鮮味はないけど、
もう一回読んでみっかと購入。
本をめくる。
こんな内容の本だったけ???
覚えていない。
海外の食を扱った本という記憶はあるものの、
内容は全く覚えていない。
読み続けても思い出すこともない。
人間の記憶なんていい加減。
まあ、同じ現象を見ても、
人によって記憶される印象は違うのだから、
十数年前の記憶なんて、
ほとんどが自分の都合の良いように、
変換されているのだろう。
読むのは2回目(のはず)だが、
結構面白い。
それに、十数年前のわしと、
今のわしでは、
価値観、考え方が違っているだろうから、
感じ方は違っていただろう。
それにしても、
家でネットが出来るようになると、
やっぱり本を読むのが激減。
本は積まれたまま。
どうしたものか。。。。
話はガラリと変わるが、
脇腹が痛い。
昨夜、酔っ払って、
部屋の中でコケた。
酔っていたので、
あまり記憶がない。
そのまま寝たが、
今日は脇腹に激痛が走る。
相変わらずアホやな~。。。
こんな生活は、
十数年前と余り変わらない。
わしには、
品行方正な生活なんて無理やな。
まあ、こんな繁華街の真ん中に住んでいて、
飲むのを我慢できるような奴とは、
大きな壁があるような気がするけど。。。
今日は昨夜の反省をして、
飲まずに、
大人しくこのブログを更新しているが、
昨夜の記憶も薄れ、
脇腹の痛みが癒えたころ、
また同じ過ちをするに違いない。
記憶なんていい加減な方が、
人間が生きて行く上で、
都合が良いのだろう。
忘れることも才能の一つ。
辺見庸著
手元にある文庫本を見ると、
平成9年初版とある。
わしの記憶が確かなら、
書店で平積みされていた本を手に取った記憶があるから、
その頃読んだのだろう。
結構、感動したのを覚えている。
今、わしが読む本は20Bの古本がほとんど。
古本屋の書棚にあったカバーもないこの本を見つけ、
新鮮味はないけど、
もう一回読んでみっかと購入。
本をめくる。
こんな内容の本だったけ???
覚えていない。
海外の食を扱った本という記憶はあるものの、
内容は全く覚えていない。
読み続けても思い出すこともない。
人間の記憶なんていい加減。
まあ、同じ現象を見ても、
人によって記憶される印象は違うのだから、
十数年前の記憶なんて、
ほとんどが自分の都合の良いように、
変換されているのだろう。
読むのは2回目(のはず)だが、
結構面白い。
それに、十数年前のわしと、
今のわしでは、
価値観、考え方が違っているだろうから、
感じ方は違っていただろう。
それにしても、
家でネットが出来るようになると、
やっぱり本を読むのが激減。
本は積まれたまま。
どうしたものか。。。。
話はガラリと変わるが、
脇腹が痛い。
昨夜、酔っ払って、
部屋の中でコケた。
酔っていたので、
あまり記憶がない。
そのまま寝たが、
今日は脇腹に激痛が走る。
相変わらずアホやな~。。。
こんな生活は、
十数年前と余り変わらない。
わしには、
品行方正な生活なんて無理やな。
まあ、こんな繁華街の真ん中に住んでいて、
飲むのを我慢できるような奴とは、
大きな壁があるような気がするけど。。。
今日は昨夜の反省をして、
飲まずに、
大人しくこのブログを更新しているが、
昨夜の記憶も薄れ、
脇腹の痛みが癒えたころ、
また同じ過ちをするに違いない。
記憶なんていい加減な方が、
人間が生きて行く上で、
都合が良いのだろう。
忘れることも才能の一つ。